覆面選挙カーの独り言



その6
 唐突ながらGAと共に挙げたい作品が1つあります。 去年から今年にかけてヒットした『あずまんが大王』(以下あずまんがと略)です。 女子高生の日常(非現実的なれど日常)を描いた必ずしも4コマ目でオチるとは限らない新感覚4コママンガ。 アニメ化もされました。 で、ここではGAとあずまんがの共通性について述べたいのですが、さてさてさて、ついにここで「その1」から「その4」までを連結する作業に入ります。
 まず、「その1」「その2」では「如何にして複数のキャラクターを成立させるか」を述べました。 GAとあずまんがに共通しているのはそのキャラの立たせ方がうまい、ということです。 単独としても、他のキャラとの対比にしても。
 さて、いよいよ「その3」「その4」に関してのGAとあずまんが大王との共通性からいろいろもの申していきますが、作品を知っている人なら「え?」と思うかもしれません。 「『その3』と『その4』で言ってたのって男の主人公のことでしょ? GAにもあずまんがにもメインキャラには男いないじゃん」と。 そうなんです。 そこが問題なんです。 GAもあずまんがも基本的には(というか現実として受け手の数、もしくは原作の連載場所で)男性向けの作品であるにもかかわらずメインキャラクターは女性のみで、本来なら「その3」で述べた「ハーレム状態」となるはずなんですが、可愛い女の子はいっぱいいるのにも関わらずハーレムの中心には誰もいないんです。 それはなぜなのか、を考える前に、もしかしたらここで湧いてくるかもしれない疑問「それは『セーラームーン』だって同じことじゃないか?」にお答えします。
 「違います。美少女戦士セーラームーンは少女漫画誌『なかよし』で連載されていたものをアニメ化したものであり、最初は完全に女の子の為の作品だったのです。 あそこまで男性消費者に受け入れられるとは想定していなかったかと思われます」
 Q「でもタキシード仮面に自己同一化、、、
 A「するかっ」
 話を元に戻して、なぜなんでしょう。 私はこう考えます(ってゆーかこれを言いたいが為にここまで書いてきたんですが)。 「その4」で述べたような主人公の主張や積極性、存在感を極力排除する、主人公の自我を抹殺し内面を空洞化することで受け手の自己統一化を容易なものとする手法、これが臨界点(飽和点)を突破してしまった為、ついに主人公(男)の存在自体が消滅してしまったのだ、と。
2002/11/16(Sat) 01:13

その7
 「薄い主人公」の原型を有する『天地無用』の時代から『ラブひな』「暴力・暴走」をメインとしてきた雑誌の屋台骨を支えることになった時代まで「主人公の影が薄い」というのはギャグとしても通用する王道だったわけですが、それを王道としながらもその理由に関しては案外無自覚であったのではないでしょうか。 主人公がついには消滅してしまった。 この流れの理由に関してヒントはあるかと思います。
 ずばりヤオイ(参考)。 商業誌への掲載よりも、同人誌というフィールドに勢力を持つこのジャンルを一言で表すとエロマンガです(エロじゃないのもあるのかもしれん)。 ただし、、、男×男のエロです。 「ホモセクシャル向け?」かと思うかもしれませんが、製作、購入合わせて少なく見積もって9割は女性層です。 なぜ女性が男と男のエロマンガなぞ読むのか、というのは当然の疑問であり、長年に渡って議論も続いています。 1万人の読者がいれば1万通りの理由があるので完全な答えなんて存在するわけないのですが、今の段階で最も一般的な論(私がこれまで見聞きした限りで)であるならば「性的欲求と性的なものへの拒否感という葛藤から生まれたもの」というものになります。 簡単に言えば、エロいのを読みたいんだけれど男と女のセックスは生々しすぎるので男同士のエロでも読むか、ということでしょうか。
 「男と女のセックスは生々しすぎる」という認識はセックスに関する商業的フィールドを先に男性層に占領されてしまった為に生まれたというのが私の考え、、、なんですけどなんか「その5」あたりから脱線発言ばっかしてるような、、、まあいいや、ついでに言っとくとGAにも敵役としてですがそれを臭わせる男の子お2人がご出演になっております、と。
 はい戻ってー。 とにかくそれって自己同一化の対象の存在を拒否してるということになり、言ってみれば神の視点で作品を楽しみたい、という欲求なんじゃないでしょうか。 もしくは、、、あまり考えたくないのですが脳内で自身がハーレムの中心にいる為には存在感が希薄な主人公さえ邪魔だったりするんでしょうか。。。
 さて、ここまででとりあえず最初に書こうと思ってたことはほとんど書きました。 のでとりあえず一区切り。
 と り あ え ず 。
2002/11/16(Sat) 01:15

その8
 今回も受け手の意識について。 別視点から。視点、、、よりも刺すような視線が気になりますねえ。「小さなお友達」の。 ってのが今回の枕で、問題とするのは、この「小さなお友達」の視点と言うよりかは「大きなお友達」の視点についてです。
 小さなお友達の視点についてはいろんなサイトで議論や分析がなされているのでここでは多くは語りません。 ただ私が「なるほど」と思った分析をひとつ紹介しておきます(どこに載ってたか忘れてもうた。 リンク貼りたかったのに)。
 魔法少女が魔法を使えたり、エスパー少年がエスパーを使えたりすることを周囲に対して秘密にしなければならないという設定は、現実の様々な面において自分を受け入れてもらえなかったり理解してもらえなかったりする前提の上、「周囲は分かってくれないんだけど本当は自分は……」という不満を解消する為の逃避行動として自己同一化をはかる為の手段である。
 細かい表現は思い出せないんだけれども大意としてはこんなところです(『ハリー・ポッター』とかモロに当てはまるような気がする)。 まあ、自分の幼稚園、小学校低学年の頃を思い出していただければなんとなく分かっていただけるかな、と。 さすがに男の子の幼稚園生が魔法少女に夢中になってたら困るので、男子諸君は戦隊ものごっこをしてただけなのにいつの間にか大喧嘩になってしまった「あの頃」を思い出していただければよろしい。
 で、本題はそういう純粋な視点は置いといて、「大きなお友達」がこういう類の作品をどう見てるか、です。 まず、「大きなお友達→作品」という視点は大きいお友達が童心(と言うとキレイなんだけれども要は精神年齢が低いってことだ)を所持するという前提のもとなら一部分としてはありえるでしょう。 程度の違いはあれ童心が残ってなければ作品を楽しむことはできないんですから。 ただしこの視点が全てではない。 いたとしたら怖すぎる。 では他の視点を挙げるとすれば何か。 「大きなお友達→小さなお友達→作品」もしくは「大きなお友達→作品→小さなお友達」、これでしょう。
 掘り下げて説明すると、大きなお友達はまず童心視点を所持しているのですが、その喜びをストレートに表現するのは自我が許さない。 そこで小さなお友達は作品をどう見ているのか、もしくは作品はどういう小さなお友達を想定しているのか、そういう視点を作品との中間に置くことで童心視点を薄め、欲望と罪悪感の葛藤を抑えるわけです。
2002/12/14(Sat) 02:42

その9
 しかし、、、逆もありえます。。。 すなわち童心視点を中間に置くことで小さなお友達の像を想像(もう言うのも馬鹿馬鹿しいが「想像」を「妄想」に変えてくれ)することの罪悪感を抑制する、とね。 二次元コンプレックス二次元コンプレックスと言われるがコインの裏側は「現実コンプレックス」であったのだわははははははははは。
 失礼しました。 少し取り乱しました。 つまり複数の視点を持たないととてもオタクなんてやっていけないってことです。 「こんなお子様向けアニメ見てるなんて何てイタいんだ、俺」という視点は表側は現実認識なんだけれども、裏側は童心視点を中和するためにあったというわけです。 ただもっと掘り下げると幻想を現実と中和させる為に使用する「小さいお友達」の像、これが健全な像である保証はどこにもなく、むしろタチの悪いさらなる幻想だったりしたり、さらにそういう「タチの悪い」視点を有する「すごくイタいオタク」の視点を経由して作品を楽しむ、自称健全なオタクもいるってことです。 もうこれは切りがないですのでこのへんで。 あと、もちろん一定の不健全さを有する以上、健全な視点を少しでも取り入れるべきだ、とは思います。 上記とは矛盾しますが。
 さて、オタクサイドの視点はもう正直辛くなってきたのでここらでちょっと非オタクサイドに矛先を向けます(ああそうだよ! 責任転化とも言うよ!)。 ただ必要以上に非オタクサイドに矛先向けると、「開き直るオタク」というえらくアイタタタな状態になるので矛先ちょっとずらします(つまりこれを読んだ非オタク様が「自分のことだ」と思わないように戦略的にぃ)。 矛先は、、、「えなりかずき」を見てなんか安心しちゃってる中高年だ!! 詳しい説明いらないでしょう。 「中高年視聴者→えなりかずき→一般的青年、もしくは現実」この図式を「その8」で述べられていることと重ね合わせてみてください。 そして、、、もしあなたに余裕があれば、、、そのような恣意的に置かれた中間視点を何らかの形で自分も有していないか、自問してみて下さい(ってこんなPHPみたいな終わりかたでいいのか俺←と中間視点←これはテレ隠し→以下無限ループ→もういい! 寝る!!←放棄を兼ねた開き直り←自己分析を装って終わらせようとしている→再度無限ループ)。
 次回、ネタが浮かぶまでごきげんよう。 ヨシ!! こんどこそホントにもう寝る!!!←……。
2002/12/14(Sat) 02:46

その10
 とりあえず本題の前に。 主人公の影が薄くなってるとか消滅してしまったとか、もしくは大きいお友達の視点の問題とか、色々騒いでおりますが、それらのテーマに対して私が述べてきた内容はその一因でしかなく、またその一面でしかない、ということです。 つまり、ある現象に対する一つのアプローチにしか過ぎない。 そのことを明記しておきます。 なんでこんなこと言うのかっつーと今回扱う対象は今まで以上に概念としてとてつもなく曖昧なもので、要因もあまりにも多種多様過ぎるものだからです。
 さて、今回のお題は、、、「おたく」です。 んまあここらでちょっと抽象的というか総論的なものをやってもいいかな、と思ったので(断じてネタ切れでは無いっ)。 さて、「おたく」という言葉を定義すること、いきなりですが放棄させてもらいます。 定義するにはあまりにも意味が詰めこまれ過ぎました。 この言葉。 「自由」とか「心」とかいう言葉と同じようにあまりにも都合よく使われるもので、定義しようとすると必ず取りこぼしが出る。 私の意見としては「おたく」も含めて上記の言葉は既に死んでいて、そろそろ新しい言葉によってはっきりと細分化して使われるべき時期に来ていると思いますが。
 「おたく」という言葉は既に蔑称としては機能しなくなっていて、むしろニュートラルな言語として機能し始めています。 これに関しては問題も多いのですが今回は横に置いときます。 とりあえずイメージ掴むところから行きましょうか。 長くなりそうな上にこの文体で続けるとすんげーつまらない内容になりような予感ビシバシなのでゆるーくいこうかと。 「定義しない」と言いましたが結局私の見方を提示していくしかないような気もします。。。
2003/01/08(Wed) 04:15

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