覆面選挙カーの独り言



その16
 バイクで言えば、実際は盗んだり事故を起こした時のペナルティーは法制上では車と変わらないはずで、同じように、アニメにしろマンガにしろその「表現の責任」というのは法制上は活字媒体と変わらない、、、はずなんですけど、実際のところはそうでもない。
 マイナーだからこそ許容されている表現の責任のなさ、と、表現の自由の拡大活用がある。 この旨み、そしてマイナー陣営から見たメジャー側の魅力の無さがメジャー志向の欠如に結びついている。 他の作品をパクッた上、あろうことかエロまで描く。 一般誌でこれをやったらまず訴えられると思いますが、コミックマーケットを始めとする同人誌即売会では許容されています。 許容されているというよりも許容を強要している。 赤信号をみんなで渡るわけです。 それは言い換えれば、何かを強要するぐらい勢力があり、「みんなで」渡れるぐらい頭数が揃っているということで、マイナー陣営=マイノリティではもはやないわけです。 「夜の校舎窓ガラス壊して回る」高校生が徒党を組んで頭数そろえたらそれはもう「反抗」でも何でも無く、組織的な破壊活動になる、、、はずなんですけど、、、これは問題を個人的なものに集約させず社会全体で背負おうという国民性でしょうか。
 まあ、しかし矛先をメジャー側に向ければ確かに横暴だったりあまりにも利益優先だった部分もありますから。 何よりも一部のメジャー陣営がマイナー陣営をターゲット(金づる)として認識した以上、既に取りこまれ始めた(もしくは融合が開始された)と言うべきかもしれません。
2003/01/08(Wed) 04:21

その17
 で、まとめとして私なりの今後の予想ってことで。
 まず、オタクワールド内のみで見ればゆっくりとならば嗜好の変化はありうるでしょうが、社会現象が劇的に何かが変化する時というのは外部からなにかしらの暴力が加わる時です。 これは何もオタクワールドに限ったことではないですが。 で、外部からの要因としては経済的なものが一番強い。
 つまり、シナリオとしてはまずこのままデフレスパイラルと共に不景気が加速した場合、企業がオタクサイドのマイナー志向(オタクワールド内で世界観を補完し合えればいい → 製品なんか買わない)をどこまで許容するかにかかっているでしょう。 限界を突破した場合、まず企業側はこれまでの清算を迫ってくる。 具体的には突破口として曖昧な部分を曖昧な部分として許さないグローバルスタンダードのルールを持って訴訟という手段に打って出る可能性が大きいかと思われます。 オタク的な要素を持つ人間は何より外部から自分の世界を破壊されることを嫌悪するので一時的に反発は激しくなるでしょう。 なにかしらの事件かもしくは行動が起こるかもしれません。
 結果としてオタクワールドの一部は叩き潰されるかもしれませんが、曖昧な部分を曖昧な部分として許さないという論理性のある行動をとることの裏返しで、グレーゾーンの大半は訴訟の対象外とせざるを得ない可能性が高い。 そのような法的に裁けない部分は、システムの改変という方策も考えられますが、それよりも再び宮崎事件当時のような拡大理論によって倫理的、PTA的な圧力がかかることは避けられないでしょう。 これはあのような事件が再び起これば一気に加速するはずです。
 しかしながら、社会全体の嗜好はインターネットの普及とTVのデジタル方式への移行によって今後ますます多様化していくと思われるので10年20年のスパンから考えた場合、オタクワールド全体としてはプラスマイナスゼロあたりで落ち着くのではないでしょうか。
2003/01/08(Wed) 05:32

その18
 何らかの理由により景気がよくなった場合も大勢としては動きは変わりませんが、景気がよくなるということはまたしてもお祭り状態になるということであり、ウミを出しきるどころか、オタク/非オタクの二極化は進むと思われます。 最悪の場合、現行のTV放送が抱える問題(一方通行であるということ)は問われず、また、好景気であるがゆえにインターネットからデジタル放送へ受け手(ではもはやないのだけれど)を動員する必要がなくなり、デジタル放送とインターネットの意地の張り合いとなり、両者がますます動きを固くするということも考えられます。
 しかしまあ、これから少なくとも10年はバブル時代のようなことになることはないでしょう。 不景気が加速するにせよどこからかもちなおすにせよ、ゆっくりとした動きになるでしょうから。 それから言うまでもなく、メジャー・マイナーなどという線の引き方は消滅します。 マイナーサイドがそれなりの対価を得る変わりにそれなりの対価を支払う事になるか、メジャーサイドが得られる対価を見限ってでも対価を支払わない事になるかは分かりませんが、多分その中間からはややメジャーサイドより(マイナー側が大きくメジャー側に近付き、メジャー側が少しマイナーよりになる)あたりを中心に分散化するかと思われます。 これは多分学校や家に当たり前の様にPCがある世代(これからか?)の意識によるところが大きいでしょう。 我々の世代がいくら存在をアピールしても、我々の世代が学生運動世代をそこまで高く評価しないのと同じで、これからの世代はメジャー・マイナーの分裂を過去の遺産として扱うでしょうから。 個人的にはこれでいいと思います。 景気動向に関しては楽観的過ぎるかもしれませんが。
2003/01/08(Wed) 05:33

その19
 ずっと前に書いた事を思い出しながら書くというのも辛いというのに、書いた文章をさらに消してしまい、それを思い出しながら書くとなるともうこれは苦行なのですが、扱うネタが美味しければそれでもイイ、イイ! というわけで、ええ。 参考資料ナシ、うろおぼえアリ、付け足し大アリで。 まあ世の中には色んな学校があって色んな授業があって『デジキャラット』などという作品を題材にしてもレポートとして扱ってくれる授業もあるんだふーん、って俺も出したじゃんそれってわけで題目は『時代性と関連深いと思われるアニメ作品と内容に則したその根拠』だったのかいふーん。 私が扱ったのは、、、『カードキャプターさくら(以下CCS)』。 今更かよだと? 黙ってろい。 行くぜ。
 作品解説はいいっしょ。 省略省略。 えー、この作品が人気絶頂だった当事、マーケティングとかリサーチとかいう言葉が経済紙以外にも載るようになりました。 王手ファミリーレストラン(空楽のことだったり)で客が注文した時に注文内容と更に客の性別、年齢層をチェックし、そのデータが瞬時に本社に送られる。 そしてどんな客層にどんな食事が好んでオーダーされるのか分析され、メニューを改変していくという戦略が組まれ成功を収めたのであります。 今日のweb上におけるアクセスアナライジング(アクセス解析のこと)もこの延長。 今では当たり前の経営手法ですが、当事は画期的でした。そして同じ意味でCCSも末期的、じゃなかった、画期的だったのです。 それまでマンガやアニメというのは、発信する側の表現という色がまだまだ残っていたのですが、CCSに関しては主要部分を完全にサービスに徹し、後の作品への影響を考えても表現の部分を徹底的に叩き潰したという点において歴史に残る作品かと思われます(←「という点において」より右側の表現はあくまでもレポートを書いた時点での私の表現です)。 魔女っ子もののアイテムをふんだんに取り入れた、という意味において消費者の需要を的確に捉えただけではなく、受け手の層を大胆に広げたということにこの作品の魅力があります。 大手レストランがファミリーレストランという枠をに広げ、幅広い年齢層、生活層を獲得したのと同様にCCSも年少向け魔女っ子ものという枠を精巧に広げ、視聴者の心をcatch you catch meしたのであります。 長年大きなおともだちにとっては無理があった「変身する時は呪文とポーズ」 「魔法少女はバトル時はコスチューム着」というお約束もさらりとギャグでかわしてしまったことは特質に値するでしょう。 このことによって大きなおともだちにとっての魔女っ子ものの設定のリアリズム(笑)にも配慮を施したわけです。 って今書いても当たり前のことだなあ、時代が進むのは早い。 でも、この作品で何が一番よかったかってそりゃあんた声優ですよ。 こればっかりは文字で表すことはできない。
2003/04/01(Tue) 03:38

その20
 さて、声優の話に脱線して事故が起きないうちに戻りますが、魔女っ子ものという枠を広げるにあたっては上述の通り精巧で緻密な作業が必要だったと思います。
 主人公のキャラクター設定はともかくとして、周辺人物の設定は当事は今とは比べ物にならないくらいセンシティブであったはずです。 原作者CLAMPの十八番はヤオイであり、CCSにも魔女っ子もの以外のアイテムを付随しようとした時、小狼、雪兎、さくらの兄(名前忘れたぜ畜生)等、やはりヤオイ的な色が出てきてしまった。おおきな女の子のおともだちを獲得するには確かに武器になりえる設定でしたが、これは通常、小さなおともだち、にも、大きいおとこのこのおともだち、にも受け入れられ難いものです。
 しかしこの作品は人物ではなく世界観を優先的に構築することでこの問題をクリアしてしまった。CCSの世界には道路が存在しても殆ど車が通らない、そして魔女っ子もの特有の大人対子供、善対悪、という構図を廃しイノセントな世界観を作り出した。つまり大きな対立が無い世界を作り出したわけです。加えると、主人公の母親は既に死んでいるという設定は非常にありがちなのですが、父親の母性がこれでもかというくらいに強調され、一応作品内で最大の敵(じゃないんだけど)であるクロウ・リードに至っても生きてんのか死んでんのか分かんないような設定になっている。 このことが死という概念を曖昧にし、生対死という対立も解消してしまっている。 対立の無い世界観というのは世界としての存在が薄くなる、そのことでホモ寝た、じゃなくてホモネタ特有のキャラクターと世界観との対立、同性愛対世間というという構図まで消し去ってしまったのです。
 つまりこの作品は世界観の掴み所が無い=受け手が世界観を構築しなければならないということになり、どこの部分を強調して見るかは各々の色眼鏡に委ねられたということになります。 さらに世界観とキャラクター、から、キャラクターとキャラクター、という構図になると、今度はタブーを抱え込む周辺の存在が逆に効果を持つこととなる。 大手ファミレスがリサーチの結果、それまでのメインディッシュをいかに追求していくかという王道からサイドメニューを効果的に配すことでメインディッシュを強調させるというやり方にシフトした様に、話が進むにつれて、描かれる部分がさくら自身の魅力から少しづつ、小狼、雪兎、さくらの兄、エリオルの腹心、のヤオイを匂わせるネタ、知世と知世の母のレズを匂わせるネタに重点が置かれるようになります(原作も含めれば、さくらの先生とさくらの友達、エリオルと瑞樹先生、という歳の離れた関係も)。 このことによってさくらのイノセンスはますます強調されるわけです。
  えー、まあ、さくらがイノセントだからこそヤオイネタも鼻につかない、更にはさくらがイノセントだからこそ世界もイノセントなのだという方達もおられるでしょうが。
 対立の薄さの原因としてさくらが戦わなければいけない理由が、大魔王がどうとか悪の力がどうとかではなく、基本的に彼女の責任にあるということも付け加えておきます。
2003/04/01(Tue) 03:41

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