映画話 特別版



総論!! 90年代映画模様☆ パート1
 一部の方(って言っても1人だけど……)から、「作品じゃなく、もう少し大きな形でやってみては?」との意見があり、今回からしばらく、90年代の映画界を、簡単に振り返ってみたいと思います。 大抵はしろありさんの独断と偏見ですが、ある程度、周りの批評家さんやその他の人々の意見も総合して考えていくつもりです。 なんか急にマジな話にしてゴメンね@
 ってことで第一回は「アメリカ映画90年代  お前が悪いんかい!? ハリウッド」です@
 まず、このデータを見てみましょう。 90年代のアメリカ映画の各年の興業成績1位作品です。

  90年 『ゴースト / ニューヨークの幻』
  91年 『ターミネーター2』
  92年 『ホーム・アローン2』
  93年 『ジュラシックパーク』
  94年 『ライオン・キング』
  95年 『バットマンフォーエバー』
  96年 『インディペンデンス・デイ』
  97年 『メン・イン・ブラック』
  98年 『タイタニック』
  99年 『スターウォーズ / エピソード1』

 さて、質問です。 この中で最近、会話の話題に上った、もしくタイトルを耳にしたなんて映画がありますか? 最近の『スターウォーズ』はともかく、『タイタニック』すら、話してないって人、いませんか? その前にいたってはもう、壊滅的でしょう。
 「映画の話なんてすぐ変わる」なんて言ってはいけません。 80年代のヒット作なら『ランボー』なり、『ダイ・ハード』なり、定期的にテレビで流されたり、批評家やファンが騒いだりしてる映画が思い浮かぶでしょう? 見たこと無くても、聞いたことぐらいあるものだったハズです。
 ところが90年代、そのような映画はほとんどありません。 理由はいくつかあります。 一つは役者で見る映画がほとんどなくなったこと(ブラピはともかく、今「ディカプリオ主演」ってだけで映画を見に行く人がどれだけいると思います? 「ジュリア・ロバーツ主演」とか)。 さらに映画以外の娯楽がますます増えて、話題が持続しなくなったこと(これは、どのジャンルの娯楽にも言える)。 そして最大の理由は、映画自体の質が悪くなり、記憶にも残らなくなった、ということです。
 最近の映画は、他の娯楽の増加やビデオ機器の普及に対抗するために、映画独自の魅力の開発に目を向けました。 その結果、

@CG映像が大々的に取り入れられ、それにかける費用を増加させた。
A音響を飛躍的に向上させ(ドゥルビーサウンド等)、映画館ならではの刺激を
  観客に与える工夫を凝らした。
B若者の映画館離れを防ぐために、今風の音楽、細かいカッティングやスロー
  モーションなどを多用した、スタイリッシュな映像を追求した。

 というような改革が起こりました。 しかし、それははからずも、映画の質よりもむしろ「イベント感覚」だけを追求した方向へと向かってしまったのです。
 昨年の『スターウォーズ』をご覧になった人で、どれだけの人が、あの戦いの発端を詳しく覚えているでしょうか? または『アルマゲドン』を見た人の何名が、隕石に行った人物を全員覚えているでしょうか(もはや人数すら言えないのでは?)。 別にわからなくてもかまいません。 当然だからです。 あれらの映画は、作品のそんな単純な構成すら、ちゃんと説明できていないのですから。 では、何を覚えているでしょう? おそらく、ポッドレースのシーンや、宇宙船が爆発するシーンではないでしょうか? あとは「ダース・モールがかっこいい」とか、「エアロスミスの歌がいい」といったところはないでしょうか?
 つまり、あれらの映画は、物語や作品としての構成よりも、アクションシーンのCGの派手さや、バリバリの音楽の方が勝った、「映像イベント」的な要素のほうが強いのです。 もちろん「それでも映画は映画」とゆう意見も正しいとは思います。 が、いくらCGが派手でも、耳が麻痺する程の音楽がガンガンかかっていても、その場のインパクトのみで、あとは何も残りません。 つまり、「作品」としては何の意味もなしてはいないのです。
 では、『シックス・センス』などはどうでしょう。 結構覚えているのではないでしょうか? あのラストは今でも頭から離れないとか、母親と子供の交流をしっかりと記憶してる人、多いのではないでしょうか。 作品のデキはともかく(そこまでいいとは思わない)、ある程度、テーマと趣旨が明確なら、映画は細かいところもしっかり残るものなのです。
 ミニシアター系の小さい映画のほうが、逆によく覚えていて、場合によっては何度も見たくなることが多いのも、この辺りに理由があります。 映画はCGや音楽とは関係なく記憶に残るものなのです。 と、ゆうわけで今回はこのへんで。 次回はインディースの映画をとりあげつつ、もう少し90年代の映画を、詳しく見直したいと思います@

総論!! 90年代映画模様☆ パート2
 スミマセン、ずっと遅れておりましたがようやく第2回です。 実は前回のカキコがまたも字数オーバーでアップできませんでした* でも今回は大丈夫(だと思う)。 今回のテーマは前回予告したとおり「アメリカ映画90年代 インディーズ映画、光と影の詩」をお送りします@
 まず、簡単にインディーズ映画の説明をさせてもらうなら、いわゆる「メジャー会社(20世紀フォックスなど)に属さない、独立したプロダクションもしくは個人によって作られた映画」のことを指します。 しかし、これはあくまで単純な定義で、興業・配給の制度が複雑化した現在では、この定義はあいまいになっています。
 一般にインディーズが注目を集めたのは80年代中頃、メジャーがスピルバーグやルーカスらのお子様イベント映画で覆い尽くされたころで、このような風潮に飽き飽きしていた一部の映画ファンが、どっとインディーズに目を向けたのがきっかけです。 現在でも根強いファンのいる独立系監督は、このころに多数デビューしています(ジャームッシュ、コーエン兄弟、スパイク・リーetc...)
 この流れは90年代も続きました(タランティーノなどはその代表)。 彼らはメジャーが手をつけないような、地味で解りにくい題材にも果敢に挑戦し、様々な成功を収めていきます。 それは、90年代に入ってからのミニ・シアターの一大攻勢からも明らかでしょう。
 そしてメジャーもこの状況を無視できなくなったのです。 90年代に入ってメジャーはインディーズ映画界からの引き抜きを本格化(『ジャッキーブラウン』のタランティーノ、『マトリックス』のウォシャオスキー兄弟etc...)し、さらにインディーズに近い環境で新人の育成、実験的な映画の製作を行うために子会社を設立し、ここで作られた映画がアカデミー賞などの有力な候補になるようになったのです(例『ピアノ・レッスン』のミラマックス)。
 と、ここまでだとインディーズは90年代映画界の救世主にも見えるのですが、その欠点もだんだんと見えてくるようになったのです。 例えばお金の使い方。 インディーズ出身の監督は大抵の場合、低予算の映画ではわからない予算に気を配らずに、お金を浪費することが多いのです。 ほかにも技法にこだわるあまり、映画のデキ自体がどっかにいってしまったり、俳優に妙な演技を押し付けたりすることがあります。 そう、最近のインディーズの監督には良くも悪くも個人にとらわれ、「職人的演出」のわからない人物が増えているのです。
 インディーズの監督は、個人主義を貫くために映画全体のバランスを無視することが多々あります。 それがインディーズ内であれば影響はないのですが、メジャーデビュー後の場合、自身の演出方や芸術性の優先が、娯楽映画自体を悪化させる危険があるのです。
 例えばタランティーノは『ジャッキーブラウン』で、時間軸を様々に交差させるとゆう自身の「技」を行いましたが、ストーリーのない『パルプ・フィクション』のような作品ならともかく、原作がしっかりと存在する本作でも、そのまま同じ技法を使っていいわけがありません。 結果、物語は混乱し、一般の観客とは遊離した作品になってしまいました。
 また、『X-メン』では『ユージョアル・サスペクツ』の監督、デビット・フィンチャーが、独特のゆったりとしたテンポとキャラの描きこみの複雑さをそのままアクション映画に持ちこんだため、おもしろさを大幅に損ねています。 その他にも、長回しやスローモーションを勘違いした方法で使い、映画の全体を無視する監督は数多くいるのです。
 昔はある程度、職人としての素養をどの監督も持ち合わせていました。 それは芸術的な面とは違い、最低限、娯楽映画には基本となる技術が必要とされるからです。 だからキューブリックもフォードも、『スパルタカス』や『アイアン・ホース』のようなきっちりとした娯楽映画も撮れたのです。 その上での芸術性なのです。 そこに捕らわれていては、いくら個性的な技術があっても、映画はおもしろくはなりません。 次回は、このような現状の遠因ともいえるヨーロッパ映画を中心に、90年代を振り返る予定です@

総論!! 90年代映画模様☆ パート3
 ふう、途中まで書いたのを消してしまった……。 やる気が薄れる……。 で、なんとかチバッて今回のテーマは「ヨーロッパ映画90年代 堕ちれども、底は見えず」をお送りします@
 最初で言ってしまえば、90年代のヨーロッパ映画は、イギリス等の一部を除き、著しく弱体化してしまった感が否めません。 例えばみなさんは「ヒットしたアメリカ以外の映画をあげろ」と言われて簡単にあげられるでしょうか? 『シュリ』のような映画、単館系の映画をあげる人もいるでしょうが、大抵の人は詰まってしまうのではないでしょうか? ましてやヨーロッパの映画に限定されればなおさらでしょう。 『ライフ・イズ・ビューティフル』や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のような例外もありますが、これらでさえ、年間のトップ10にも入っていないのです。
 これは日本だけのことではありません。 内容的にも興行的にも今ヨーロッパ映画は下降線上にあります。 もちろんいくつかの理由はあります。 ハリウッドの進出がいっそう激しくなり、自国の映画が年間のトップ10にも入らないような国も出るほどになったこと(フランスなど)、個人主義・作家主義が進んだ結果、作り手と観客との溝が深まってしまったことなど。 しかし最大の難点は、決定的な人材が産まれなかったことです。
 80年代、だんだんと粗雑になるハリウッド映画に対抗するように、新しいヨーロッパの監督が続々と注目を集めました。 『ポンヌフの恋人』レオス・カラックス、『ベティ・ブルー』ジャン・ジャック・ベネックス、『マッチ工房の少女』アキ・カウリスマキ、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』ペドロ・アルモドバル、『ニュー・シネマ・パラダイス』ジョゼッペ・トルナトーレなどなど……。 しかし、90年代はイギリスの新人やパトリス・ルコント、ラース・フォン・トリヤーなどを除き、新人が圧倒的に少なかったのです。 強烈な個性の不足は、個人的でも強烈に一部に作用する映画に支えられていたヨーロッパ映画には大きな痛手だったのです。
 現在では「ドグマ」のような映画集団、または今までまるで注目を集めなかった小国の映画が、ヨーロッパ映画の新しい顔になろうとしています。 また独特の映像感覚を持った監督達も、これからの重要な焦点です。 最後に、簡単ではありますが各国の映画状況を確認しときたいと思います。

イギリス
90年代最も活気があったのがイギリス。 『トレインスポッティング』のダニー・ボイルや『ロックストック&トゥースモーキングバレルズ』のガイ・リッチーといった、斬新な映像感覚を持った新人の登場、『ブラス!』や『フル・モンティ』のような手堅い職人芸で国の現状を描ける基盤の充実、マイク・リー(『秘密と嘘』)、ケン・ローチ(『マイ・ネーム・イズ・ジョー』)のような独特な作風を持った芸術家。 これらがバランス良くそろったのが最大の理由でしょう。 また、これらの才能が国の現状と密接に結ばれている点も重要。

フランス
とにかく勢いに欠けた。 パトリス・ルコントやクラピッシュ、フランソワ・オゾン等を除いて、決定的な人材が出なかったのは辛い(80年代は多かっただけになおさら)。 国内の興行も悪く、大変な10年だった。 巨匠(ゴダール、レネなど)の不信も気になるところ。 ハリウッドへの才能流出も痛かった。

イタリア
映画祭頼みの感無きにしも在らずだが、『ライフ〜〜』を始め『イル・ポスティーノ』、『ニューシネマ・パラダイス』と定期的にヒット作が出ている。 国内の収入も他よりは良い。

ドイツ
90年代後半に『ラン・ローラ・ラン』や『ノッキン・オン・ヘブンズドア』『バンディッツ』といった、かつてのニュー・ジャーマンシネマ(70年代後半に起きた、新しいドイツ映画のムーブの総称)を思わせる動きがあった。 要注意か!?

スペイン
自国の映画が定期的にヒットしている稀有な国。 今年も『オール・アバウト・マイ・マザー』が大ヒット。 しかも世界的なラテンブームときている。 今後の台風の目。

その他
デンマークのラース・フォン・トリアー、北欧ではスウェーデン、フィンランド(カウリスマキ)、最近では『ウェイクアップ・ネッド』など、アイルランドの映画も注目を集めている。 徐々に大国以外の国の映画が注目される傾向にある。

総論!! 90年代映画模様☆ パート4
 え〜、気付いたら2ヶ月近く開いてしまったこのコーナー* 忙しいと逃げてたら、こうなりました*
 しかし、そのぶん今回は気合入れます。 今回は「アジア・東欧・ロシア映画(第3諸国映画) 変化する映画」です@
 90年代、最も注目を集めた地域、それはヨーロッパやアメリカではなく、基本的には「映画が作られていることさえ認識されていなかった」いわゆる第3世界の国々の映画でした。 この流れは70年代から目立ち始めましたが、『旅芸人の記録』『永遠と一日』のテオ・アンゲロプロス、『惑星ソラリス』のアンドレイ・タルコフスキーらも、この頃から巨匠として認められるようになったように、世界中に広がったのです。
 さらに、80年代に入ると今度はアジア映画が、ハリウッドにない斬新な映像、演出技法、さらに異国趣味なども合間って、『男たちの挽歌』ジョン・ウー、『芙蓉鎮』シェ・チン、(製作だが)『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』ツイ・ハーク、さらにはジャッキー・チェンやチョウ・ユンファといった[スター]も登場し、黄金時代が訪れました。
 この傾向は、90年代に入るとさらに大きくなる。 もはや映画はアメリカ、ヨーロッパの物ではなくなったのです(とは言っても、興行の面ではもちろん敵わないのですが)。 『友達のうちはどこ?』のアッバス・キアロスタミ(イラン)、『ブエノスアイレス』ウォン・カーウェイ(香港)、『非情城市』ホウ・シャオシェン(台湾)、チャン・イーモウ(中国)など、現現[作家性]を持って語られる監督も、多く出てきています。
 これらの監督、もしくは作品はどれも独自の作風・技法に支えられたものが多いのが特徴です。 それをいくつかの傾向でまとめると、

@地方色を強調した、美しい(独特な)色使い(チャン・イーモウ作品他)
A理論や筋に捕らわれないストーリー(香港アクション全般)
B絵作りを意識した、ゆるやかなテンポ(テオ・アンゲロプロス作品他)
C自国の問題に根ざしたテーマ設定(『アンダー・グラウンド』他)
D荒削りな照明・撮影・編集技術(『踊るマハラジャ』他)

 上に示した特徴は、決して全てに共通するものではないし、ごく一部を強引にまとめたものにすぎません。 しかし、このハリウッド映画には見られない(あるいは見られなくなった)特徴が、現在の第3世界の映画を注目させたものであることは、おそらく間違いないでしょう。
 ただ、ここで問題になるのは「これからの第3諸国映画」です。 このハリウッドにない要素は、ある意味映画の幅を大きく広げましたが、未だ一般に浸透するような成果は上げていません。 音楽のない、延々と同じシーンが続くような映画が、はたして全ての人々に受け入れられるでしょうか?
 これらの映画は(金銭的な問題もありますが)、基本的には「過去の映画技法の再現(再発見)」なのです。 過去にハリウッド、もしくはヨーロッパで使われていた技法。 それを掘り起こし、新たなる名目を持って使用した意義は認められます。 しかし、はたしてそれはいつまで観客を魅了することができるでしょう? 基本的には過去の産物。 いつかその映画作家の「作風」として、ファッションとして取り入れられた時、彼らは「ファン、および評論家」以外の観客を、引き付けることができるのでしょうか??
 鮮やかな色彩も政治意識の導入も、時間が経ちその国のファッションとして定着した時点で、観客の興味を掻き立てるものではなくなる可能性があることは否めません。 大ヒットした『踊るマハラジャ』や『シュリ』の続編、およびそれに便乗した作品はどうなったでしょうか? アメリカ映画に対抗するだけのイメージに捕らわれない「多様性」が、今は必要なのです。
 では、どうすればいいのか。 一つの例があります。 それは西洋のスタッフ・資金により、いくつかの国が共同で映画を製作するとゆう方法です。 最近、仏・ネパール合作の『キャラバン』、米・中合作『グリーン・デスティニー』が相次いで成功を収めていますがこれはお互いの技術を駆使しつつ、新たなる国での映画製作を可能にし、世界に広めることができるとゆう意味で、様々な可能性を秘めた試行だと思います(昔からあったのですが)。
 ただし、この方法はどちらが映画製作の主導権を取るかで、作品が大きく変わる恐れがあります。 西洋的技法が、返って第3諸国の魅力を消したり、一面的な視点でのみその国を描くことになることもあるでしょう。 また、私達観客の思考がハリウッド的映画によってある程度無意識に慣らされてしまた以上、その概念を取り払い、なおかつ一人よがりで批評家・ファン向きにならない映画を作る必要もあります。 映画はこれからが勝負なのです。

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