真取の戯言



まず第一に
 以前のが見辛かったということもあってリニューアルすることとなったわけですが、今回は趣旨通りにちょっと真面目な話をしていこうと思っています。 とは言っても、所詮は『戯言』というタイトルが付けられたページなので、これを読んだからといってモニタの前の貴方の人生が変わる訳でも思考回路が変わる訳でもありません。 まあ、酒を飲んで軽く酔っている20代のガキの詮ない話だと思って読み流して下さい、はい。 ……ちなみに、あまり冗談とかは交えないと思います。 プラス、汚い言葉を使うことも多いと予想してるんですが、そこら辺は恐らく私の本音ですので、お許し下さい。
 長い前置きでしたが、ここ辺りで第1回の本題に入ります。 最初、つまり「出発点」の重要性を話してみようと思います。
 人間というものは何かと始まりを気にかけるものだと私は考えています。 そうでなければ西暦なんてものは生まれません。 勿論、便宜性とかが必要になって作られたのかもしれません。 まあ、そこは置いておくとして、始まりというものは何かと人を縛り付けるのです。 以前(と言ってもかなり前ですが)、議論用の掲示板でもこのことは話したんですが、敢えてもう一度やりたいのです。 で、出発点の話ですが、当たり前のこととして悪いことなんて殆どないと思います。 例を挙げると、初心という言葉は「初心忘るるべからず」と言うように非常に大切なものです。 何にせよ初めての経験というものは、その後にとっても必要ですし、その切っ掛けも失くしてはならないと思います。 最初の経験の記憶は簡単に消えてしまうものではありませんし、それがあるから他のことへ挑戦する意志を生み出せると思います。
 ですが、私はそれをあまり重要視はしていません。 上で書いたことは一般論としてで、そういう意味では私も同意見です。 しかし私個人としてはどうかと問われれば、「大切だが、あまり重要視するものではない」という答えになります。 私の場合、初心(初めての経験の記憶)を考えるのは、挫折、もしくは何かに詰まってしまった場合くらいです。 大抵の場合において、初めての経験を思い出すことは、自分を奮い立たせるものですが、私の場合はそうではないのです。 ですので、私はそういう記憶は出来るだけ思い出したくないのです。 それに伴って、その記憶の重要性というものも薄れてしまうので、結果的に現在における初心は大して重要なものではなくなってしまいます。
 そのうち書くでしょうが、私が重要視するものは、現在、つまり、今、というものです。 ですので、過去を振り返って自分を元気にするよりも、落ち込んでいても今ある状況をどうするかを考えます。 順番を付けるとすると、現在>過去>未来 となります。 これについては散々言っていることなのでこれ以上は書きませんが、初心は現在ほど重要ではないということです。
 結論として、「初めての経験の記憶はどうしても必要であり大切だが、現在の状況ほど重要視することはない」ということです。
 ……とまあ、こんな感じでやっていきますので宜しくお願いします。

偽善
 よく「悪があるからこそ善がある」と言いますが、それについては同感です。 というか、それは当然のことなので、いちいち言うことではないと思います。 善悪の判断と言うものは個人で決定するものであって、最初から決まっているものではありません。 更に、その基準と言うものは常に相対的なもので、そこに絶対性は存在しません。
 以上のことはこの回で書く本題ではないので、簡単な前置きだと思ってくれて結構です。 それで、偽善についての話ですが、最初に言っておくと、私は偽善者が大嫌いです。 少し古い話ですが、本当はそんなこと思ってもいないのに、いじめのニュースに涙を流しながら「いじめはなくさなきゃいけない」とか言っている芸能人とか、お前さっさと(略)と思います。 ……本気でそう言っているのかどうか、私は読心術を使える人間ではないので分かりませんが、CM明けの芸能ニュースで笑って話せるような人間については論外だと思います。 勿論、このことは特に芸能人に限ったことではありません。 芸能人を出したのは分かり易い例を挙げたかったからであって、芸能人すべてがそうだと言っているわけではありません。
 しかし、偽善もまた必要なものです。 完璧な善と完璧な悪しかない世界なんて生きていけるものじゃないと思います。 ……まあ、国によってはそういうところもあるでしょうが、それに関してはここで書く必要はないのでやりません。 偽善が必要だという考えですが、建前というものが必要なことと同じです。 考えようによっては偽善がいつしか建前になっているような気もしますが、そんなものだと思います。 世の中、本音だけでは渡っていけないはずです。 本音しか言えない人間に人付き合いが出来るのかという問題にもなりますが。
 偽善の必要性については上の通りなんですが、不必要な場合というものは何なのか、となります。 私個人の結論を言ってしまうと、「今この場で自分自身に直接関わることの出来ない事柄についての偽善」です。 前述の芸能人の例とかがそうなります。 細かい話になりますが、直接関わりがなくても、関わることの出来る事柄については必要だと思います。 日常的な例だと、困っている赤の他人を助ける行為とかがそうなります。 心の底からその人を助けたいと思う人は稀ではないでしょうか。 本人はそう思っているかもしれませんが、そこに下心がないとは思えません。 つまり、物質的なものだけではなく、お礼が欲しいのではないか、と。 仮にこれを読んでいる貴方が一般的に言う人助け行為をしたとして、相手がそれを当たり前のように思っていて礼もせずに去っていったらどう感じますか? 私は凄く不愉快です。 お礼を言われても何とも思いませんが、言われないよりは言われた方が気分がいいです。 というかそれは礼儀だと思います。 余計なお世話なら最初にそう伝えてくれれば分かります。
 脱線しましたが、何が言いたいのかというと、お礼をするかどうかは相手が決めることであって、何もなかったからといって不愉快な気分になるのは、どう繕ってもこちらに下心があったからに他ならない、ということです。 もしお礼を言われていい気分になったとしたら、やはり最初からそれを望んでいたからであって、その感情は結果として付随するものではないのではないでしょうか。 何にせよ、これらの行為は互いに何の影響も及ぼさないにしても、一時的とはいえ互いに他人を信用できることだから出来ることです。 個人的な感想を言うと、「なくても構わないが、出来ることならあった方がいい」性質の行為です。 まあ、それだけ心に余裕がある証拠だとも思いますので。
 纏めると、偽善というものは必要なものとそうでないものがあり、必要な偽善はそこに必要性がなくともあった方がよく、そうでないものは無くなっても構わないということです。

自己満足
 私も一応は(本当に一応ですが)字書きの1人なんですが、そういうことをしていると批評を貰うこともあるんです。 表現者の宿命とでもいいましょうか。 まあ、何も反応がないよりはあった方が良いと個人的には思っています。 それで嫌な思いをしたり良い思いをしたりと色々です。
 ここからが本題。 これは私が受けたものではありませんが、以前、後輩の小説に感想が来ました。 個人宛にではなく、数人に対しての意見の1つとして。 詳しい内容は憶えていないのですが、簡単に書くと「自己満足にしか見えない」というものでした。 ……よく見る意見ではあります。 これに対して「じゃあお前が書いてみろ」とか言う気は全くありません。 この手の反論が好きではないということもあります。 が、私としてはこういった意見には同意しかねます。
 まず、私個人の意見を言わせて貰うと「表現は自己満足」だと思います。 まあ、プロになれば、こうした方が売れるとか表現する側のイメージとか色々あるかもしれませんが、基本は上の通りだと思います。 何かを表現しようとする場合、表現する側のその時点でのベストを尽くすものだと思います。 ……たとえスランプだろうが締め切りが迫って時間がなかろうが。 小説に限ったことではありませんが、自分で添削していると、どうしても納得のいかない部分というものは出てきます。 しかし、その段階では(その時点の本人の実力)どうにもならないものというのもあります。 そういう点も含めてのベストです。 誰だってわざわざ自分でカスだと思っているものをものを表には出したくないでしょうし。 そして、完成したら一度は満足してしまうものです。 たとえ一時的にでも自分で満足できないものを出すのは気が引けますし、私はやりたくありません。 なので、何らかの作品に対しての「自己満足だ」という意見は無意味だと私は思います。 ついでに言うと、受け手は不特定の人ですから、好みが合わない作品も自ずから出てきてしまうものです。 複数名の作品が載っている雑誌なら尚更です。
 よく考えると「自己満足」という批判は便利なものだと思います。 こう言われると「じゃあ読み手を満足させればいいのか?」ということになってしまいます。 正直なところ、私は受ける側として満足感を得たことはありません。 受け手を満足させるということは、「金を出した分はあった」とか「これが無料とは」とか思わせれば良いということなのでしょうか? 確かに金銭を貰うのですから、それなりのものにしなければならないとは思うのですが、それは作っている側もあまり変わりません。 それでも、作品の価値を金銭との天秤で量るのは好ましいこととは思えません。 これは言葉の揚げ足取りなんでしょうか?
 私が言うのも何ですが、意見を貰った後輩の作品は特に悪いとは思いませんでした。 特に素晴らしいとも思いませんでしたが。 問題は無いように思えたのですが……。 その他の感想を読む限りでは、その人の好みに合わなかったのでは、としか予想できませんでした。 これは仕方のないこととも言えます。何にしても個人の好みが重要ですから。 少し外れますが、有名で評判も良くて販売数も多い小説でも、嫌いな作品というものは私にもあります。 正直なところ、どうして売れたのか理解に苦しみます。 が、それが人の好みというものなのでしょう。
 色々と書きましたが、要は「『自己満足だ』という感想は、それなりの理由がない限りは使って欲しくない」ということです。 ……まあ、作品に対して何と言おうが受け手の自由ですし、これを求める気もありませんが。

婉曲
 「婉曲」という言葉の意味を知らない人はそんなにいないと思いますが、とりあえず説明しておくと「表現が直接的ではなく、遠回しなこと」です。 意識していなくても、日本で生まれ育った人は婉曲的な話し方をすることが割と多いのではないでしょうか。 断りの場合、使い方によっては言い訳がましく聞こえることもありますが、それは仕方のないことです。
 現代では(社会に出たら当然のことかもしれませんが)、言いたいことはそのまま伝える方が良いようです。 まあ、意見を言う場合にはその方が分かりやすいかと思います。 ですが、私は何かを直接的な表現で口にするのは好きではありません。 言われている内容が同じならば、婉曲的に言われた方が良いですし、なるべくはそうしようと努めています。 それが二度、三度ともなればストレートに伝えるのも已むなしだとは思いますが。 こういった状況になるのは婉曲表現に伴う副作用だと私は考えています。 あまり耳にしない婉曲的な言い回しをした場合、相手が察してくれない限り内容は伝わらないもので、ともすれば違う意味に取られかねません。 これは仕方のないことです。 こちらが言葉足らずだったのか、相手の考えが至らなかったのかという問題を別にしても。
 婉曲表現は何も日本だけのものではありませんが(「死ぬ」を「pass away」と言ったりしますし)、どうも日本人は多用する癖があるように思えます。 決まった言い方がなくても、内容を遠回しに話しているのはよくあります。 特に忌むべきものでも話題にするのが憚られるような内容でなくてもです。 私は学者ではありませんので詳しいことは分かりませんが、「遠慮」という考え方が大きいような気がします。 見知った間柄でも相手の家に入る時には少なからず遠慮するくらいですし(気の置けない間柄だと別でしょうが)。 どこから来た考えなのかは残念ながら知りません。 それはともかく、その「遠慮」に加えて「気遣い」があると思います。 人間なら他人より自分の方が大事だと思いますが、それでも極限状況でもない限り、相手のことを考えることは多いはずです。 「自分がされて嫌なことは他人にはするな」という言葉は、このことを分かりやすく伝えていると思います(あくまで普通の状況で)。
 ですが、婉曲表現は何も相手を思い遣る為だけに使うのではないと考えています。 何かを指摘したり意見する場合には、あまりにもストレートな言い方は相手に歓迎されるものではありません。 どちらにせよ少なからず相手を批判するのなら、心象を良くしておいた方が良いものです。 婉曲表現にはこの効果もあるのではないでしょうか。 一言で表すなら「保身」ですか。
 婉曲的な指摘には別の効果もあると思います。 例えば、相手が何らか行為を何の気にもなしにしている場合、真っ直ぐに伝えるのと、遠回しに伝えるのでは多少なりとも違いが出ると思います。 恐らく、結果的に同じになる場合が多いとは思いますが、言われた方の思考経路は異なるのではないでしょうか。 「言われて気付く」と「言われて気付かされる」のと。 婉曲の場合、言われた内容は明確ではありませんから、こちらで内容を察知する必要があります。 よって、相手の言わんとすることを自分で考えなければなりません。 この経緯が違うのです。 もっとも、こうすると遠回しの程度によっては誤解を招いたり、内容が伝わらないこともありますが、それは上で書いた通り、どちらの問題とも言えません。 また、「経緯が異なっても結果があまり変わらないのであればストレートに伝えた方が良い」という意見に対しては反論のしようがありません。 これは「気遣い」と「保身」に付随するものだと考えた方が良いでしょう。 真っ向から否定されるよりは自分で気付いた(と思った)方が気も楽ですし。
 よく考えてみると婉曲表現は効率的とは言えませんが、人間同士の付き合いでは必ず必要だと思います。 人間には感情がありますから。 言いたいことはズバズバ言った方が良いという傾向が強まっている状況ですが……私にはちょっとできません。

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